タシケントに眠る日本人抑留者
太平洋戦争終結直後、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約57.5万人(平和祈念展示資料館)がソヴィエト連邦のスターリンの指示により強制的にシベリア移送、長年労働を強いられ、厳しい環境の下、約6万人の命が失われた。山崎豊子の不毛地帯はシベリア抑留を題材にしたものだ。
ソヴィエト連邦を構成する中央アジア地域のウズベキスタンへは、そのうち2万3千人の日本兵が送られ、主に建設事業の労働力として徴用された。その間に817名(在ウズベキスタン日本大使館)がウズベキスタンで帰らぬ人となっている。
調査団メンバーの一人が満州からの引揚者で、タシケントに日本人墓地があるので是非墓参りしたいとの要望があり、ウズベクツーリズムの担当者にその旨話をしてこの墓地を訪ねた。この墓地(公営ヤッカサライ墓地)には、タシケント周辺、ヤッカサライ墓地より79名、タシケント地区墓地より8名、計87名(訪問当時)の日本人が眠る。
隣接してドイツ人墓地がある。碑には1990年5月23日、もうひとつの碑には1995年10月1日の日付が刻まれている。両方とも福島県という文字が読める。
抑留日本人の墓地は、ヤッカサライの他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェンスキイに日本人墓地がある。ウズベキスタン国内ではタシケント州アングレン市、チルチツク市、ボスタンデクス市、ベカバード市、フェルガナ州コーカンド市、フェルガナ州フェルガナ市、アンディジャン州アンディジャン市、ブハラ州カガンなど13ヶ所に日本人墓地がある。
タシケント第四ラーゲリーの約500人の抑留者がウズベク人やロシア人とともに建設に従事し工事が中断していたナボイバレエ・オペラ劇場(タシケント)が1947年に竣工したことはよく知られている。ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築である.日本人抑留者は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた
永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑 1990年5月23日 日ソ親善協会福島県支部 (1996年2月撮影) |
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永遠の平和と友好の誓いの碑 1995年10月1日 日本ウズベキスタン友好議員連盟 福島県ウズベキスタン文化経済友好協会 ウズベキスタン国際文化教育交流国民協会 (1996年2月撮影) |
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墓地全景、石碑に殉職者名が刻まれている。 隣接してドイツ人抑留者の墓地がある (1996年2月撮影)
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シベリア抑留中死亡者名簿
元抑留者の村山常雄さんが平成19年(2007年)7月に「シベリアに逝きし人々を刻す」題するソ連抑留者死亡名簿を刊行した。その名簿によれば46,303名(2011年1月10日現在)が亡くなり、中央アジア全体では2475名が亡くなり、そのうち、ウズベキスタンでは876名が亡くなっている。なお、ソ連における日本人収容所はシベリアから西はウクライナまで広範囲にわたり、鉄道がその移動に大きな役割を果たしている。
ウズベキスタンの各収容所と抑留者死亡数:
第26収容所 〔アンヂジャン地区〕 33名
第288収容所 〔ベカバード地区〕 147名
第360収容所 〔ボスタンデグスキー地区〕 13名
第367収容所 〔コーカンド地区〕 241名
第372収容所 〔アングレン地区〕 134名
第386収容所 〔タシケント地区〕 261名
所属不明 47名
出典:シベリア抑留者死亡者名簿
関連リンク
- 平和祈念展示資料館 労苦体験手記-シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編)
独立行政法人 平和祈念事業特別基金平和祈念事業特別基金編集 戦後強制抑留史- 日本国政府とウズベキスタン政府との間の抑留中死亡者をめぐる人道分野における協力(仮訳)
古里を遠く離れ生きた年月は(西日本新聞社)シベリア抑留日記、終戦から復員までの記録- 夕鶴が舞ったナボイの夏
第二次大戦後ウズベキスタンにおいて抑留された日本人の記念展示- ウズベク「ナボイ劇場」のオペラ公演に感激(ナボイ劇場建設に携わった元日本兵、元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長、永田さんの寄稿
- シベリア抑留中死亡者名簿
- シベリア抑留死亡者名簿
- Opera and Ballet Theatre named after Alisher Navoi
The Alisher Navoi State Academic Bolshoi Theatre of Opera and Ballet- Alisher Navoi Grand Academic Theatre